エンジン全壊

感情に整合性を求めるな

13歳の私よ、私の描いた漫画が出たぞ - 初サークル参加によせて


──お前の自カプ本を出すから代わりに本を出せ。

仲のいいフォロワーにそう持ちかけられたのが去年の夏だった。
腐オタクは常に自カプに飢えている。365日あたらしい自カプを強欲に求め続けている。
そんな状況下で、ずっとファンでかつ何故か今仲良くしてもらっている神文字書きのフォロワーにそんな取引を持ちかけられたら誰だってはいと言うと思う。
私は持ちかけられるままイベントに申し込みをし、クリップスタジオを1グレード上げ、さあやってやろうじゃないかとペンを取って、そのまま数カ月止まっていた。
もうなんかずっとフリーズしていた。
私が締め切りギリギリまでものに手を付けないダメ人間だという理由もあるけれど、そうじゃなくて。
ただ、頭の中である呪いがハウリングを起こしたから。

私はこの同人誌を出すまで漫画というものを書いたことが一切なかった。
絵を描くのはずっと趣味としてやっていたけれど、漫画を作ったことが本当になかったのだ。
厳密に言えば1ページ漫画程度はらくがきとして作ったことはあったけれど、2ページ以上のものはなかった。1ページ漫画だって私は一枚絵の延長として描いていた。

幼稚園の頃に両親に連れられて入った中古本屋で、平積みにされていた桃色の表紙の漫画を読んでからというものの私の人生には漫画というものが常にどこかにあった。漫画のイラストを書き写したのが生まれて初めて自主的に描いた絵だったように思う。
現代において決して珍しくない事、というかむしろ一般的なことだと思うけれど、漫画というものに人生をだいぶひっくり返されている。吉崎観音先生がカエル型宇宙人の漫画を描いていなければ私は今頃オタクになっていたかどうかも怪しいし、ねこぢる先生が倫理の歪んだ奇っ怪な猫を描いていなければ幼少期の私はきっと今よりもっとおかしな子供になっていた。
くだらない絵しか描いてこなかったけれど、世界に漫画があったから絵を描いていたのだし、世界に物語がなければずっと創造性のない人間に育ったのだろうなと思う。当たり前だけど。
それでも今まで「漫画」というものを書かなかったのは正直に言うとちょっとしたトラウマがずっと頭の片隅に残っていたから。

幼い頃からサブカルチャーとインターネットに触れていたせいか物心がついた頃には私はすでに腐のオタクになっていた。
多くのおえかき腐オタクがそうであるように私もこっっっっっっそりと男二人がくんずほぐれつする絵を描き、誰の目にも触れないよう隠していたのだけれど、13歳のある日、私の部屋を知らない間にあさっていた両親がそれを見つけてしまったことがある。
ここまでならまだ恥ずかしいオタクの黒歴史程度で済むのだけれど、私の両親はそこでは終わらなかった。奴らは自分の実の娘の趣味嗜好を一つずつ取り上げては私をこき下ろし最終的に人格否定を行うというたそうご立派な趣味をお持ちであったのだ。
そんな奴らがBL絵が描かれたノートを見つけて笑って済ませるわけがない。奴らは悪いことにサブカルチャーにそこそこ精通している側の人間(といっても絵を書くイコール漫画、程度の認識しか持っていなかったようだけれど)で同人誌という存在を理解していたことも手伝いそりゃもうものっすごいバカにされた。
父親の持つ大きなPCの横で正座されられた。目の前に私の書いた絵を広げられた。

下手くそ。骨格がおかしい。デッサンがなってない。線の描き方がおかしい。目の大きさが不均衡。頭蓋骨が歪んでいる。手がクリームパン。足が不自然に細い。人の腕はこんなふうに曲がらない。そもそも何を参考にして書いたんだ?言え。検索してみろ。参考にしている絵のチョイスすらセンスがないな。下手くそ。一生上達しない。下手くそ。下手くそ。
こんなものを描いて将来漫画家にでもなるのか?
はたまた同人誌でも出すつもりか?

どちらもお前には無理だ。
お前には、無理。
無理。

思春期に言われた辛い言葉というのは頭の片隅に残り続けるもので、この言葉ももうずっと脳みそに抱えていたものになる。実際この言葉がハウリングして、美術系を学ぼうとする事を家を出るまで私は一切することができなかった。そして、漫画を書くことも避け続けていた。
……正直、こんな状況下でそれでもこっそり絵を描き続けたあの頃の私は本当に偉かったと思う。絵を描いて、描いて、描いては親に見つからないようわざわざ学校に持っていって捨てて、あるときは燃やして、途中からは開き直って捨てることもせず、それだけ絵を描くことが楽しかった。上達は全然しなかったけれど。
でも、やっぱり漫画はずっと描けなかった。
描こうとしたこともある。A4の紙を8つに折って真ん中を切って豆本を作ってそこに漫画を書こうとして、やっぱり手が止まった。

……今は親元から離れて年単位で時間が経ったのでそこまででもなくなったけれど、それでも私には決定的に「漫画を書く」という経験が欠けていた。
最初は誰だってそうなのはわかっていたし、フォロワーたちからたくさんアドバイスを貰ってどうにかそれを補おうともしたけど、物語を作って絵にするということが本当に難しかった。

脱稿してイベントに行って頒布してたくさん手にとって貰えて、1連の流れを終えた今だから書けることだけど。本当にイベント参加を辞退しようかなとさえ考えていた。
それだけ怖かった。漫画と向き合うのが。
怖かった。怖かった。本当に怖かった。
無理だと言う言葉を反芻し続けた概念と向き合うのが、何より怖かった。
無理という呪いを何度もはねのけようとして結局だめで、私には漫画なんてずっとかけないままで、私のスペースには念の為に作ったシールがひとつ乗って終わりになるんだろうと思った。

それでも、今私の手元には私の描いた漫画本がある。
何度見返しても直視できないほど拙いし読みにくいし絵もあんまりうまくないし、いや、頒布したものにこんなにネガティブな言葉を吐きたくはないけど本当に今もまともに中身が見れない。
でも嬉しい。
マジで嬉しい。
漫画を書き上げることができたというそれ自体も嬉しいけれど、本当に何より嬉しいのがそれを手にとってくれる人達がたくさんいたこと。

楽しみにしてたんだ〜とスペースに来てくれたフォロワーがいた。
通販してねと言ってくれたフォロワーがいた。
取り置きサービスを利用してくれた人がいた。
スペースの前を素通りしようとして、私の同人誌を見て止まって、くださいと言ってくれた人がいた。
サンプルを手にとって数ページ見てすぐに閉じて1冊お願いしますと言ってくれた人がいた。

私は漫画を書くことができた。
読んでくれた人がいて、はじめてそれを実感できた。
身内オタクのフォロワーが何人か手にとってくれたらそれだけでいいなと思っていた部数が想像よりずっとはやくなくなって。
割と本気で燃やそうかと思っていた在庫が余裕で半分以下になって。
新刊300円になります、と言うたびに泣きそうになるのをずっと堪えていた。
本当にめちゃくちゃ嬉しかった。
知らなかった。

私は漫画を描けたんだ。

何はともあれ本当に楽しかったしうれしかったし感無量だった。
イベントのあとで食った肉は最高にうまかった。神絵師は肉を食うから絵がうまいのではなく絵がうまいから肉を食うのだと悟った。
マジでストーリーもへったくれもあるのかどうか怪しいような、人を選びまくるであろう本を手にとってくださった方々、本当にありがとうございました。皆さんのおかげで超個人的な呪いが一つ終わった気がします。マジでありがとうございました。ありがとうございました。よかったらなんでもいいので感想くださいね。(乞食)
あと誘ってくれたフォロワー、励ましてくれたフォロワー、アドバイスくれたフォロワー、ありがとう。愛してるぞ。

また、漫画、描きたいなあ。

あなたはかつていい子でしたか - 実在する理不尽を炙り出したトガリの話

2018年12月30日。大晦日前日。
グラブルの無料10n連を回してから寝るために5時までは起きていようと思ってツイッターを開けると、朝4時半のタイムラインは鳥のぬいぐるみアカウントの話題で占拠されていた。

ガリくんというかわいい鳥のぬいぐるみの日常をつづるアカウントがある事はもとから知っていたけれど、今までまともにツイートを読もうとしたことはなかった。
なぜならトガリくんはツイッターで家族ごっこのような事を行っていたから。トガリくんは人間の男と女と同居しており、その二人をそれぞれ「おとさん」「おかさん」と呼んでいる。トガリくんは子供の立場である。
ほんわかあたたかファミリィ♡みたいな話が心の底から苦手な私にとって、トガリくんのようなアカウントは避けるべき、とまではいかなくともそんなに好意を抱けるタイプのアカウントではなかったのだ。(でも突然自身のフォロワーからのリプライに対して突然心を閉ざす事があるのはなんか面白くて好きだった)
そんなトガリくんがタイムラインを斡旋している。どうせ30分くらい暇だった私はグラブルのガチャを回すまで彼のアカウントを遡ることにした。

結果。大ダメージを食らって帰ってきた。

ガリくんの周囲に2018年クリスマス前後に起こったことをダイジェストざっと書きださせてもらう。なお、読みにくいので「おとさん」は父、「おかさん」は母と表現する。

12/20 自分がほしいものをサンタさんへ伝えるよう、父に伝言を頼む。
12/21 父から「難しいって言ってたから他のも考えて」と伝言を返される。
12/22 プレゼントの希望を第三希望まで手紙に書き、父に預ける。内容は「①おとと ②いもと ③おともだち」
12/23 サンタに預けるようお願いした筈の手紙がツリーに吊るされているのを発見。父に不信感を抱く。
12/24 サンタさんに希望が伝わらなかったことで自棄になるも父の提案により手紙を風船で空に飛ばす事に。飛ばした風船と手紙は予備を含めて2セット。
12/25朝 サンタからぬいぐるみを貰う。思っていたものとは違うもののまんぞくしたと答える。他には祖母からスノードーム、父母からジグソーパズルを貰う。
     トガリ父が忘年会の帰りに生き物を拾ってくる。父母いわく「オス」「たぶんノラ」。
     ノラに自分のぬいぐるみのサンタ帽子を奪われる。(奪われ①)
12/26 母に呼ばれ、暴れるノラを嗜めるも聞いてもらえず。
    おにぎりをノラに運ぶ。無視される。
    父が帰宅。ノラは父に駆け寄り、父からおにぎりをもらって食べる。
    ノラ、隅っこで就寝。
12/27 ノラに柿の種を与える。今度は受け取ってもらえる。他のお菓子も見せるとチーズ味のうまい棒をとられる。(奪われ②)
    何故かノラがトガリのパンツを被る。返してもらえず。(奪われ③)
    ノラ、トガリ父と入浴。父がトガリに断りを入れ、トガリのズボンのノラに履かせる。(奪われ④)
12/28 ノラを家に残し母と公園へ葉っぱ集めに。この間に自分のお菓子をすべてノラに食べられる。(奪われ⑤)
    父にそれを伝え、怒って欲しい旨も伝えるが「やさしくしないとだめ」と逆に言われる。
    ノラ、父と就寝。
12/29 公園へ葉っぱ集めに行こうとするも、父が無断でノラにトガリの靴を貸していたため行けず。(奪われ⑥)
    仕方ないのでパズルで遊ぶ。帰ってきた父を問い詰める。
    父に言われ、ノラにえんぴつとノートを貸す。(奪われ⑦)
    母に「来年までいい子にできる?」と聞かれる。来年のためにクリスマスツリーを片付ける。その際に一緒にサンタ帽をしまおうとしたがノラと奪い合いになり、負ける。(奪われ⑧)
    ノラが悪いと母に訴えるも「トガリはお兄ちゃんになれるかな」と返される。
12/30 ノラと一緒にパズルをする。ノラがピースを食べようとするのを止める。
    父と公園に行ってる間にノラがパズルと葉っぱをめちゃくちゃにする。(奪われ⑨)
    怒ってノラを家から追い出す。
    両親に「ノラには悪意はなかったのかもしれない」とたしなめられてノラを探しに行く。
    ノラを見つけ、謝罪し一緒に帰り、就寝。


※ダイジェストだとこの空気感が伝わらないので東京トガリくんの公式ツイッターをさかのぼってくれ。写真での表現がまたすごいんだ。

さて。この話をあなたはどう捉えたのだろう。
こんなクソ辺鄙なよくわからないブログを見てるってことは多分あなたはオタクなんだろうし、オタクってことは多分、この流れをトガリやノラの視点から見て受け取り、「兄だからと自分の嫌なことを我慢させられる理不尽な境遇の子供の話」と捉えたのではないかなあ、と思う。
父と母から「兄だから」「いい子にしなければいけない」という抑圧を受け、自分自身も呪いのように「いい子であること」に固執する。
しかし「いい子」であればあるほど、自分と比べて圧倒的に「悪い子」であるノラが自分の物を奪い父に愛されているという矛盾が浮き彫りになっていく。
その矛盾はおそらくトガリが今後何十年も生きていくにあたって永遠に心に残るしがらみとなり得るだろう──他にもいろいろ不穏な部分はあるけど大まかに言うとそんな感じのバッドエンドの話だと思ったんじゃないだろうか。
全部偏見だから違ったらごめんね。

けれども、おそらく街角で一般主婦や一般会社員、一般学生を捕まえてこの話を見せると彼らは「弟ができたお兄ちゃんが少し大人になる話」なのだと答える。
というか多分そう答える人間の割合のほうが高いはずだ。
子供の立場からではなくあくまでも父母と同じ方向の目線から子供を見て、はい二人は打ち解けましたトガリは子供じみた執着を捨てていっぽ大人に近づきましたハッピーエンドですねイイハナシダナーと捉えた人間は世界には山ほどいる。

何故言い切れるかって?
実際にいるからだ。
ガリくんのリプライ欄に。

なぜこの一連の流れがタイムラインで話題になったか。それは多分、トガリくんの押し込められた立場は本当にどこにでもあるような理不尽で、同じような理屈を幼少期に押し付けられて心を焼かれた人間がこの世にあんまりにも多すぎるからだと思う。
大人から受けた抑圧の理不尽さに取り返しのつかない傷を負って生きて、身体ばかり大人になって何もかもがうまく立ち行かなくなった、そんな人間がツイッターにはごまんといる。
しかしトガリが炙り出したのはそういった「被害者」側の人間だけではない。おとさんおかさんと同じ立場からモノを言い理不尽を子供に強要することを教育だと捉える「加害者」の立場になってしまった人間をもトガリは引っ張り出してきた。

"トガリ"という生命は実在しない。
子供を「お兄ちゃん」という役割に縛ろうとする母親も、酔っ払ったノリで生命を拾ってくる父親も、突然拾われたり追い出されたりしてパニックになる哀れな黒い鳥も実在しない。

けれども、トガリくんにリプライを送っている人間とその言葉はすべてそこに確実に存在している。
赤の他人同士の関係なのに兄弟関係に置かれたというだけで「いつか絶対わかり会える」と軽率に言い放つ人間も、幼子の繊細な感情や不満を「大人になってあげて」と押さえつける人間も、自分の領域を脅かされる事を「お兄ちゃんになるための第一関門」というきらきらした言葉でごまかす人間も、たしかに命を持ってそこにあってトガリをさらに抑圧しようとリプライを送っている。
すべてがフィックションであるトガリ劇場の中で、一番身勝手で安全な立場からトガリに物を言えるリプライ欄だけが現実のものとして取り残されている。

フィックションを利用して実在する理不尽をそこに置く。
東京トガリというアカウントが何を思ってこんなストーリーを世に流したのかは全く持ってわからないけれど、このリプライ欄のことも想定して話を展開させたのだとすれば本当に感嘆の声しか出ない。
けれどもし東京トガリがこの話を本当に心の底からハートフルストーリーとして作っていたら。
東京トガリからしてみると正しいのはリプライ欄であり、ツイッターで心をかき乱された我々の感情はよくわからない過剰反応してる人達のものとみなされていたら。
それが一番怖いことだよなあ、と思う。


ところでなんで我々はこんな年の瀬に鳥のぬいぐるみに自分の過去を見出して苦しんでるんだ?

メンヘラは幸福に死ねるか - メンヘラによるメンヘラ生態解説

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3日くらいぶっ続けで精神が危うくなってたので仕事をサボり引きこもり自殺企図と睡眠とツイッターを繰り返していたらついにフォロワー(?)の手によってツイッターを報告され、ツイッター社からの温かいお言葉をいただきました。通算3回目。
いい加減フォロワー達に呆れられるんじゃないか?ついにリムブロ祭りからの飛び降りか?とも思っていたけれど、普段から「メンヘラに触れるな!メンヘラに触れるな!ほっとけ!とりこまれるぞ!大人しく動かなくなるまでほっとけ!」と騒いでいた甲斐もあってか無事フォロワーからリムもブロも食らうことなく、なんとか出勤し上司に怒鳴られ上司に怒鳴られ仕事をし上司に怒鳴られストレスからか晩メシにインドカレーをキメる程度に回復しました。
錯乱ツイートとかもしたけど私は元気です。

さて今回珍しく筆をとったワケですが、精神がゴミクズのようにシワシワとなっている今だからこそ「メンヘラが病んでても触れてはいけない」「メンヘラ(ぼくです)はそれを受け入れねばならない」と私が常日頃から叫んでいる理由をネバネバ解説したかったからです。
カレーを食いながらお話します。

(メンヘラというか7割型私自身の話みたいになっていることをご了承ください。すべてのメンヘラがこうというワケではないです)


古今東西インターネットにはさまざまなメンヘラが蛆虫のように湧いては肥溜めのように死んでいきました。しかしたかがインターネット、数十年程度でメンヘラの生態に大きな変化はありません。
全てのメンヘラは大きく3つに分けられます。
自殺したか、自殺するか、自殺しない(しなかった)か。
自殺したメンヘラ、というと誰を思い浮かべるでしょうか?身近な人からインターネットレジェンドメンヘラまでさまざまでしょう。
しかし生けるメンヘラがこれから自殺するかどうか見分ける方法はありません。本人にも、他者にも。
ですからメンヘラを自覚しているメンヘラというのは常に「早く死にたい」と主張しつつも「いつか本当に死んでしまうのではないか」と怯えて暮らしているのです。

こういう話をすると8割くらいの人間から「なんだ!やっぱり死にたいなんて嘘じゃん!w」という反応が帰ってくるんですが、決してそうじゃないんだな〜〜。
「死にたい」「死にたくない」という感情は全く矛盾しないもの、というか誰にでもあなたにも普通にあるものです。

「あの店の料理はうまい」「でも雰囲気は好きじゃない」
「あのツイッタラーは言ってる事がおかしい」「でも内容は面白い」
「あの漫画家の人格が嫌い」「でも作品は大好き」
みたいな感情、あるでしょう。
「死にたい」「死にたくない」もそんな感じの感情と同じようなノリで同時に起こっています。

じゃあなぜメンヘラはその相反感情がこうも目立つのか。
大半の、いわゆる"フツウ"の人間はそれを「ならす」ということを覚えます。10点満点で表現すると、
「雰囲気はダメ、でも料理は好きだから6点」
「おかしいけど面白いからいいや、9点」
「作品はいいけどやっぱり人格がなあ、2点」
みたいな。
こういう、感情を「ならす」という作業は人は成長するにつれ次第に身につけていきます。
メンヘラにはこれができない。四六時中0点と10点の評価を右往左往する。だからこその不安定さ。
嫌い。好き。つまんない。超楽しい。鬱。躁。憎い。愛してる。今すぐ死にたい。死にたくない。


「メンヘラはどうせ死なない」という言説は実に一般的なものですが、事実としてメンヘラは死にます。いつか死にます。きっと他人より早く死にます。事実として、これまで自死を選んだメンヘラなど捨てるほど居ます。
じゃあなぜメンヘラは死なないなんて言われてしまうのか。そのカラクリがさっき言った「感情をならせない」という部分にあります。
"フツウ"の人は感情をうまくならすことができる故に、身近な人が死んだり、大きな失敗をしたり、そういうことが無いとそこまで大きく落ち込みはしません。
けれどメンヘラは違う。ちょっと怒られたり、ちょっと遅刻したり、ジャムの瓶が開けられなかったり、そういうどーでもいいことで頻繁に酷く落ち込む。「私はゴミクズだ、0点」というふうに。(落ち込みやすい理由はこれだけではないけれど……)
これが所謂「マヂ病みリスカしょ。。」の原理である。彼女らはマジに言っているのですよ。
"フツウ"の人が年に1度やるかどうかという落ち込み方を日常的にしていれば、そりゃあ最初は「本当に死んでしまうのではないか」と思うかもしれないけどそれが2度、3度、何十回も繰り返されれば辟易して「ああこいつはなんだかんだ言って死なないんだな」と思ってしまう。それは間違いではないし、メンヘラの「死にたい」1000回のうち999回は死なないけど、でも最後の1回でとうとう死んでしまう。999回のうちにほとんどの人に呆れられ見捨てられたがゆえに、1000回目で死ぬ。メンヘラはそうやって死にます。

じゃあメンヘラを救う手立てはないのてしょうか?
あります。沢山ある。一人にしない。ギリギリまで寄り添う。見極めのうまい人なら、いつもある程度の距離にいて、本当に落ち込んだときに引き戻す。そうやって、自分が"見捨てない"人間だと納得させるまで永遠に繰り返し続ける。
けれどこれには欠点があるのです。「メッッッチャ大変」という点。
だってメンヘラは二四時間三六五日いつだって突然死にかける。メンヘラから見れば世界が終わるかどうかみたいな理由であったとしても、自分から見ればハナクソみたいな理由で死のうとする。下手に懐かれたら夜中に錯乱電話は来るし本当に見捨てないか確かめる為にヤベー行動に出るし、本当に大変。
理解ができない人間に寄り添うのは大変な苦労を伴う。最悪の場合自分もメンヘラになって一緒に死んでおしまい。難易度ベリーハードとかいう次元じゃない。
だから本当にメンヘラのそばにいたい、一緒にいたいと願うのであれば相当な覚悟が必要になってきます。

……もちろんそういう確固たる意志を持ってメンヘラに接し続けた人もいます。うまく距離感を保ったまま宥めて隙間を埋めて、そういった人のおかげでメンヘラをやめた人間だってたくさんいます。。本当にすごいことですよ。事実、元メンヘラによる記事やブログを見ると9割9分ほぼ確定で現在の恋人や配偶者の類が出てきますし。(暗黒面)

でもうん、やっぱり無理。めんどくせえもんメンヘラなんか。そうだろ。
そういうことをあまり理解せずにメンヘラに手を差し伸べると本当に駄目なことになる。メンヘラはいつでも死にたいけれどやっぱり苦しいのは嫌で、逃れる手を常に求めている。それがどれだけ相手の負担になるか理解していてもその手に縋らざるを得ないのです。
それはメンヘラにとっても"救い手"にとっても地獄でしかない。
メンヘラは嫌われたくない。今まで何回もなされた「見捨てられる」という事を経験したくない、故に縋る。
縋られれば縋られるほど重くなる。



まとまらない話になりましたが、カレーを食べ終わってデザートのアイスが出てきたので無理やりまとめにいきます。

・メンヘラが死ぬかどうかはもはや運であり、死ぬときはあっさりと死ぬ
・メンヘラは0か10でしかものを捉えられないのでクソ
・メンヘラに軽い気持ちで「死なないで」とか言おうものなら引きずり込まれるぞ
・メンヘラはやめとけ

以上!解散!

でもあんまりメンヘラは他人に迷惑をかける……と思いすぎると、好きな人間に迷惑をかけたくない嫌われたくないがために全てを拒否しまくる地獄の自縛ディフェンダーメンヘラになるので気をつけようね。(自己紹介)

死ぬまで心に嘘はつき通せるか - アディショナルメモリー雑感

※ これを書いたヒトはメカクシティアクターズで心が折れて楽曲編以外を追わなくなったオタクです。なのでここに書くことは全て的外れな可能性が高いです。外部展開と矛盾があってもそういうものなので許して下さい。

 

 

楯山アヤノが苦手だった。

 


じん / アヤノの幸福理論【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

それは彼女があんまりにも「できた少女」だったから。

義理の弟妹のためにあらゆることをし、社会不適合な友人たちに寄り添い、いつもふんわりと隣の席で微笑んでいる、黒髪で、赤色の似合う、ありふれていて非の打ち所のない少女。

何の罪も無いのに理不尽の渦中に突き落とされ、自分の幸福をあきらめ、高校生にして自ら命を断った少女。

あまりにできすぎていて、何一つ共感できるモノがなかった。

ほとんどの登場人物が何かしらの葛藤や自己矛盾、くらいものを抱えているこの作品群において彼女だけはうつくしいものとして描写されていた。と思う。

それが苦手だった。

ストーリーと主人公の根幹に関わるキャラクターということで彼女には要所要所でおおきな出番があったけれど、彼女が出てくるたびにモヤモヤしていた。

自分がクソ人間だから彼女の心情に共感できなかったのでは?といわれると何も返せないのだけれど、もし自分が「お前が死ねばお前が愛する人間たちは幸福に生きられる」と言われて「じゃあ死にます、ごめんね」とさっくり死ねる人間なんて居るんだろうか。

本当になにひとつ理解できなくて苦手だった。

 

数日前、アディショナルメモリーが投稿されるまで。

 


じん−アディショナルメモリー / JIN−Additional Memory

 

 

私がずっと考えていた「自分の幸福を諦めて他人を思える人間なんて現実みがない」という事は、そもそも彼女の根幹について最初からから間違えていたのだろうと思う。

なんだ。彼女は幸福を諦められてなんかいやしなかったんじゃないか。

"幸福理論"や"ロスタイムメモリー"での言葉はすべてひっそりと嘘や未練がふくまれていたんじゃないか。そういうことか。

 

自殺というのは到底簡単な行為ではない。ヒトはすべての夢とか希望とかそういうものを諦めることでしか死を選べない。

好きなヒトも好きなモノもたくさんあって幸福な未来のことも信じていた彼女であれば、なおさらそれは困難をのきわめただろうと思う。

それでも使命感と他者を想う気持ちでひとつずつ諦めていって、そうやって最後に彼女に残ったものが如月シンタローだった。

当たり前だ。

少女が少女である限り、少女に恋を諦めきることなんてできはしない。

彼女は少女であるがゆえに恋を捨てきることができなかった。(んじゃないかな)(多分)

 

だから彼女はその自分の心を「嘘」だということにした。

「また明日」なんてさ 言いたくなかったな
拭えない涙も 言葉も 嘘 嘘

嘘だと定義して押し殺したことで彼女の準備は完了した。

けれど嘘であとうと感情は死なない。

だから、アディショナルメモリーは死にゆく恋心の歌だ。

屋上から落ちて地面に衝突するまでの、「嘘」というカラで押し込めた感情がそれを突き破って噴出するたった数秒間の歌だ。

楯山アヤノは人間だった。

友達なんかに なりたくなかったな

友達なんかで 終わりたくなかったな

 

 

「アディショナル」って「追加された」「補足的な」って意味合いらしいね。

カゲロウプロジェクトの世界において彼女の慟哭は補足的な、おまけみたいなものでしかない。

結局あの子は死の瞬間に嘘を崩壊させてしまったけれど、けれどそれによって何か生まれるわけではない。死人に口なし。視聴者側に開示された彼女の数秒間は、物語の登場人物には知られないまま終わる。

遣り切れない、いなくなったものの歌。

死んだものは帰ってこない。彼女と一緒に死んでしまった、世界からすればちっぽけな取るに足らない恋心も、帰ってはこない。

アディショナルメモリー、ずるい曲だった。

何が言いたいかわからなくなったのでおしまい。

 

(前作の失想ワアドからの落差がすごすぎてび~~~~~~っくらこいた(これからの楽曲は「リロード」の盤名通り未来の曲が多くなるんじゃないかと思ってた)。

けれど考えてみれば当たり前のことなんだよな。

木戸つぼみは生きている。生きていく。だからリロードができる。

楯山文乃は死んだ。恋心と一緒に死んだ。だからどこにも行けない。

二代目団長は仲間から花を手渡される。

初代団長は一人花の中で佇む。

ウオ~~~~~~~~~~対比がずるいぜ。)